日本書紀研究会


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『朝鮮学報』第24輯(1962年)

日本書紀研究会紹介

江畑 武

日本書紀研究会は、三国遺事研究会とともに、 三品彰英博士を中心としてすすめられている研究会である。 はじめ、1958年に三国遺事研究会の会員によって、雄略・継体紀を中心にした 日鮮関係記事を研究する命として発足したが、そののち、会員がふえるにつれて、 書紀全般の研究に重点をうつし、60年5月に、 「書紀成立過程の解明」を主題とした書紀総合研究の会へと発展し、現在に至った。

60年4月以前のことは、筆者がまだ参加していなかったため、 詳しい事情を知らないので省略する。ただ日本書紀の記事を年次別・内容別にカードを作ったり、 借字のカードが作られたりしていたので、かなり組織的な研究体制が出来ていたと云う印象がある。 筆者が三国遺事研究会と同時に、この日本書紀研究会のメンバーになると、 研究誌を作ることを命ぜられた。 当時の陣容を見ると、会長三品彰英博士は朝鮮関係を主とし、全般を総括しておられた。 これを補佐する井上秀雄氏、中国関係を主とする村上四男氏、宗教・考古学を主とする笠井倭人氏、 日本の政治社会関係を主とする岸俊男氏、人名・地名の借字を担当する木下礼仁氏などが居られた。 再編成された第一回の日本書紀研究会は1960年5月13日である。 場所は同志社大学大学院文化史学科教室で、三品博士の研究室ならびにお宅から、 古事記伝・書紀通釈・書紀通証・古事記大成をはじめ関係の書物を持ちこみ、 岸氏も釈日本紀などを持ってこられ、恒久的な研究態勢を整えた。 また井上・木下両氏と筆者も加わり、書紀研究会誌をはじめ、研究資料を収集・整理し、 これをコピーして会員に配布することになった。

第一回の研究会後、各方面から参加希望者もあり、且つ出来るだけ会を充実させるため、 在京の書紀研究者に参加を要請した。幸い多数の共鳴を得て、会員の数は急速に増加した。 特に、日本古代史関係の中堅ならびに新進の研究者を多数得たことは、 研究会の色彩を豊にした。この時期に参加された人々を挙げると、 考古学の京大講師小林行雄氏、美術史の同志社大学助教授小川光暢氏、 古代史の立命館大学講師上田正昭氏、同関西大学助教授薗田香融氏をはじめ、 京都大学大学院生泉谷康夫氏、同じくハ木充氏、京都女子大学々生吉岡光子氏、 奈良女子大学々生是恒照子氏、同志社大学々生楠史氏などである。

同年10月、会長三品彰英氏が同志社大学教授を辞任され、 大阪市立歴史風俗博物館長に就任されるまで、この研究会は極めて順調な発展を続けた。 隔週一回を原則とするだけでなく、夏休みには連続三日にわたり、 早朝九時からタ方七時に及ぶ強行軍もあった。この間研究会々誌は60枚を越え、 関係資料のコピーされたものだけでも百数十枚におよんだ。 また会長三品博士の新考案によるパンチカード改良型の書紀専用カードを作ったのもこの頃である。 日本書紀をはじめ、三国遺事、三国史記をはじめ、日鮮金石文など必要資料をカードにあわせて撮影し、 必要部分をコピーして会員諸氏に配布した。

この研究会の運営は、会員諸氏の会費でまかなわれた。 講読は雄略紀から始まり継体紀におよんだ。講読にはあらかじめ担当者をきめ、 全般的な解説をするのでなく、日時ないしは内容で、書紀本文を適当に区切り、 その間各自の問題に従い、全くフリートウキングの形式で運営せられたので、 これを記録する役を割りあてられた筆者は、しばしば困惑し、 筆を止めなければならぬことが多かった。会誌記録の困難を別にすると、実に楽しい会で、 筆者を除く会員諸氏はいかにも楽しげに、勝手な熱を吹いておられた。 一見雑然たる自己主張のように見えているが、周知のように会長三品博士の独特な見識と話術で、 この混乱はいつのまにか整理統合され、各自がそれぞれの立場で納得出来る結論に達していた。

前記のように60年10月に、会長三品博士が大阪博物館に転勤されたことは、 この研究会に致命的な打撃を与えた。創立期の大阪博物館は多忙を極め、 特に初代館長は席の暖まる暇もなかった。会員一同研究会の再開されることを熱望しながらも、 舵なき舟の憂いをかこち、ひたすら会長の時間的余裕の出来るのを待った。 ようやくその年の12月にいたって、研究再開のめどもついた。 ただ、従来の研究会員が多く京都に住んでいたにもかかわらず、 会場を大阪城内の博物館に移さねばならず、地域的・時間的制約が命の運営を基本的に 変更しなければならなくなった。すなわち講読会は一時中止し、 各自の研究発表を中心にすることになった。その研究発表を挙げれば次のようである。

60年12月「上師部について」 小林行雄氏
61年1月「吉備氏について」 岸俊雄氏
2月「百済五都督府」 村上四男氏

三月の学年末の多忙がブレーキとなって、暫くこの研究発表会も中絶されたが、 その間三国遺事研究会でもしばしば書紀研究会再開の件が問題になり、 他の会員からも再開を迫まられたが、その再開が各種の条件に制約され、 再開されるに至らなかった。会員諸氏は年ごとに多忙になられ、その運営はますます困難になった。 しかし、これらの事情を越え、強引にこの研究会を再開するだけでなく、 更に広く、在京ならびに在阪の日本書紀研究者を動員して、 本年一月装いをあらたに再度この研究会が再開された。あらたに参加された方方は、 古代史の関西大学教授横田健一氏・同大阪市立大学助教授直木孝次郎氏・ 比較文学の天理大学講師玄昌厦氏、考古学の大阪博物館学芸員安井良三氏・ 古代史の平安学園教諭日野昭氏・近世史の伏見高校教諭湯浅見氏などの諸氏である。 これだけの豪華なメンバーを集め得たことは、朝鮮古代史関係で朝鮮学会を除くと、 日本で最大の規模のものであろう。 日本書紀の研究は東京でも数年前から行なわれていると聞くが、 新進気鋭の学徒の多いことでは、決してひけをとらないと思う。 特に会長三品博士の素意である日鮮両古代史の結合、新進学徒の養成については、 その構成メンバーの点から見て、かなり成功している。今後これら諸目的を達するため、 会員各位の努力と研究会の運営に一層の改善を加えることが必要であろう。 すなわち、会員の増大は会員の会に対する要望もさることながら、 全員が定期的に集まることさえ困難となった。 それ故さしあたって要望の多い書紀講読は一時おあずけとなり、 昨年同様、研究発表の形式を取らざるを得なくなった。 この点4月より幹事に就任された笠井倭人氏の手腕によって、 解決していただかねばならぬ問題が数多く残されている。

さて再度再開せられた日本書紀研究会の行事を略記すれば、次のようになる。

62年1月12日七支刀の銘文について三品彰英氏
 2月23日三国遺事王暦と日本書紀笠井倭人氏
  継体記の成立過程井上秀雄氏
 3月23日釆女の語源江畑武氏
  大連・大臣制について上田正昭氏
 4月27日百済記について三品彰英氏
  三上次男著「脚絆原始墳墓の研究」について 横田健一氏
 5月25日蘇我氏の系譜について日野昭氏

最後にこの研究会は会長の気性を受け、極めて開放的であり、 特別に規約もない気儘な研究会でありますから、日本書紀に関心を持たれる 在京・在阪の研究者諸氏の積極的な御参加を切望します。 また朝鮮古代史に強い関心を持つ研究会でありますので、今後とも朝鮮学会本部をはじめ、 朝鮮学会々員各位に御援助いただかねばならぬことが多いと存じます。 どうか今までと変らぬ御声援をたまわりたいと存じます。朝鮮学会々員の皆様にも、 機会がありましたら、この研究会に御出席いただきたいと存じます。

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