『日本書紀研究』第20冊

三品先生の思い出

直木 孝次郎

三品彰英先生の講筵に列したのは、一九四二年、私が京都大学二回生のときである。 太平洋戦争は、前年十一月にはじまっており、二年上級の人々は、 一九四二年三月卒業の予定を四か月くりあげて、四一年一二月に卒業した。 私たちが、二回生に進級した四二年四月に三回生となった人々 -のちの関西大学教授有坂隆道さんや富山大学教授梅原隆章さんのクラス-は 四二年九月に卒業して行った。私たちのクラスもこの時に三回生になった。 つまり二回生の期間は半年という慌しさだった。

だからせっかく舞鶴の海軍機関学校から出講して下さる三品先生の授業も、 半年しか受講できなかった。 二、三年前までは、柳田国男や折口信夫など名だたる大家の集中講義があったということを、 先聾からよく閃かされたが、戦局がきびしくなった私たちの時にはもう望めなかった。 私のおぼえている特殊講義は、柴田実先生の国学の思想、東伏見邦英先生の飛鳥時代の文化、 学外からは宮地直一先生の神道史、それに三品先生の日本神話の研究である。 藤直幹先生の中世武士道の講義もあったと思うが、はっきりおぼえていない。 その代り史料講読で令義解を読んでいただいたのはよくおぼえている。 やはり古代に関心があったからだろう。 特講のなかでは三品先生のと東伏見先生のとが面白かったのも、ひとつはそのせいだろう。

とくに三品先生の神話の研究には魅了された。 五〇年以上前のことだし、当時のノートは戦災で失っているし、正確なことは思い出せないが、 比較神話学の方法で日本神話を解明する、きわめて実証的・科学的な研究であったと思う。 先生の最初の著書「建国神話論考」と、 第二の研究書「日鮮神話伝説の研究」にまとめられた業績を踏まえた講義であった。 このとき先生は四十五歳、研究者としてもっとも充実しておられたころではなかろうか。 半年で先生の講義が終るのが残念であった。

レポートには出雲神話と日向神話の比較を書いて優をいただいた。 他のレポートもだいだい優をいただいたように思うが、全優というわけにはいかない。 宮地先生へのは良であった。 一年後、一九四三年九月に卒業するとき、卒業式で全学卒業生を代表し、 在学生代表の送辞に対し答辞を読んだのは、国史同期の梅渓昇君であったと記憶する。 順番が文学部の史学科にまわって来たのだろうが、梅渓君は全優の成績であったのだろう。

おぼつかない記憶であるが、私は先生の講義ではじめて、 天孫降臨神話の本質は穀霊信仰で、類例は朝鮮をはじめ東アジアの各地に多いことを学んだ。 あとになって知ったことだが、 四二年というのはのちに学位論文となる『新羅花郎の研究』の原稿をまとめておられもとで、 実証的な学問を推進しておられたのである。

このころ先生と同じ海軍機関学校に勤め、 先生の日常をよくご存知の横田健一さんの思い出を引用させていただく。

「ここで思い出すのは、その(昭和)一八年、学界で最も進歩的であった某史学専門雑誌に、 先生の学問が米英科学的であると論難した批評が掲載された。 米英を相手に戦っているときに、米英科学的と評せられることは、 まかり間違えば生命とりになりかねない。しかし先生は、 この評を読んで呵々大笑されたのみであった」(『日本書紀研究』第8冊〈一九七五年〉、序)

某史学専門雑誌は『歴史学研究』であると横田さんから伺った。 ただし『歴史学研究』の総目録を検した限りでは、 三品先生の著書は独立した書評としては取りあげられていない。 右の批評は学界動向のような欄に見えるのだろう。

それにしても先生が米英的とも評されるぐらい自由な学風を維持できたのは、 学問に理解のある海軍の学校に勤めておられたのが、却ってよかったのかもしれないが、 先生の御性格による所が大きかったのであろう。

先生は前記の『建国神話論考』の印刷なかば米国に渡り、 東海岸ニューヘブンのエール大学に学ばれるが、横田さんのお話によると、 ロサンゼルスで自動車を入手し、米大陸を自動車で横断されたという。 さらに感心するのは、アメリカではダンスが出来ないとつきあいができない、 というところから、渡米にさきだち、ダンスのできる芸者を自宅へ呼んで、 ダンスを習われたということである。 そして「家内の前で芸者とダンスをした者はめったにあるまい」というのが御自慢であった。 むろん横田さんからの受け売りである。

この自由で闊達で積極的なご性格が、先生の広い視野を持つ、 科学的な学問を造りあげる原動力となったと思われる。 その学風はそのまま横田さんに継承された。 わが日本書紀研究会の学風もそうであり、そうであらねばならないと思う。


横田さんが機関学校の教官になられたのは一九四一年四月であるが、 戦争の進展にともなう機関学校の生徒数の増加により、日本史の教官も増えた。 横田さんや私の京都大学での先輩にあたる鴇田忠正氏は舞鶴海兵団の教授となられたが、 その前後に鴇田氏と同期の水野恭一郎氏も機関学校へはいられた。 三品先生を中心として、京大国史の一寸した分校の観がある。 そして一九四三年一〇月に海軍予備学生として海軍に入隊した私も、 三か月後に武官教官としてその「分校」に加えてもらえる幸運にめぐまれかけたのである。

それも戦後横田さんから教えてもらったのだが、四三年一二月、 予備学生のなかから採用する教官候補の名簿が機関学校に送られてきた。 見ると直木孝次郎と武者小路穣(現在、和光大学名誉教授)の名がある。 三品先生以下国史の文官教官は一致して直木を採りたいと希望して下さったが、 武官側の意向で武者小路が採用されることになったという。 「京大出の文官教官はみな文化史的で時局にあわないと睨まれていた。 それに武者小路君の人物点が抜群にすぐれていたからね」と横田さんは説明して下さった。

残念ながら機関学校の選択は当然であったと私も思う。 武者小路君は東京大学国史科の卒業であるが、 大学の前の旧制高校は私と同じ一高の文科である。 ただし彼は文甲、私は文乙で、とくに親しくはなかったが、 互に顔みしりで話をしたことは何度もある。 気性がしっかりしていて、信頼できる男という印象であった。 その彼と高校を卒業して二年半ぶりに同期の予備学生として海軍に入り、 再会したわけである。海軍での武者小路の印象は一高時代と変わらなかった。 指導教官も武者小路の存在を認めていたようである。 四四年五月三十一日に少尉に任官して以後、 何かの機会に私たち予備学生-三期兵科教育班-の成績序列が印刷してある海軍省の公報を見たが、 三百五十人ほどのうち武者小路はたしか二番か三番であった。 彼が機関学校の教官に採用されたのは、まことに妥当な人事である。

筆が横に滑ったが、 そのようなこともあって先生は私のことを憶えて下さったのであろう。 戦後は何かとお世話になった。たとえば一九六一年正月のこと、 私はその前年一〇月に大阪市立博物館館長になられた先生を博物館にお訪ねして、 邪馬台国問題について種々お教えを受けたことがある。その十か月前、 私は岩波書店から「講座日本歴史」に「国家の発生」というテーマの執筆の依頼を受けた。 こういうテーマはそれまでの私の研究領域から外れていて、自信がなく、 一度は辞退したのだが、編集委員の北山茂夫先生のたってのお奨めがあって結局引受け、 準備をはじめた。

しかし「漢書」地理志から「魏志」倭人伝に至る日本国家形成の問題を 十か月ぐらいでまとめるのは大変である。なかに含まれる邪馬台国だけでも大仕事である。 私は勉強の過程に生じた疑問を先生にぶつけに行ったわけである。 正月三か日が明けたばかりの博物館はまだ人影は少なく、 先生は広い館長室で懇切に私の質問に答えて下さった。 二時間近く私は充実した時を持つことができた。 こうして仕あげた論文を載せた『日本歴史』第一巻は、翌六二年四月に刊行された。

このころすでに「日本書紀研究会」の会合は始まっていた。 しかし私は住居が奈良にあり、勤め先が大阪市にあったために、 研究会にはあまり出席していない。本書編集部からは、 初期のころの会合(研究例会)の雰囲気などを書くように言われていたのだが、 右の事情でそれには私は適任ではない。 三品先生の思い出を書くことで、責を塞がせていただきたい。

例会の出席はよくなかったが、一九六四年から刊行のはじまった『日本書紀研究』には、 初期のころは律義に原稿を提出した。 総目次を見ると、第四冊目まで毎冊論文が載っているのは三品先生と私だけである。 その第四冊が出版されたお祝いの席で、先生は、 「今まで毎冊書いてくれたのは直木君だけだ」と言って褒めて下さった。 そうした先生のやさしさを、学問のきびしさとともに私は今も忘れることができない。


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