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序
横田 健一
三品彰英先生が昨年一二月一九日に逝去されてから、 早くも七か月がすぎ、初盆を迎えた。 本来、この論文集は先生の古稀の寿を慶祝するために企画され、 刊行されるべき書であった。 本年の七月五日が先生の古稀、すなわち生誕七〇回の佳日にあたり、 祝宴が行なわれるはずであった。 しかるに悲しいかな、先生は永遠に帰ることなく、極楽浄土に往かれてしまった。
日本書紀研究会は一九六〇年五月二日に第一回の研究会を行なっている。 それより二年前、一九五八年七月一日に、 先生を中心に数名の者が「三国遺事研究会」と「朝鮮研究会」を発足させた。 前者は『三国遺事』に詳密な註釈・考証を加えることを目的とし、 後者は韓国における最新の研究を翻訳紹介し、 『朝鮮研究年報』を刊行するための会であるが、メンバーは同一であった。
ところが、その研究会の間に『日本書紀』の雄略紀から継体紀にかけての 朝鮮関係記事研究の議がおこり、これが発展し、多くのメンバーの参加を得て、 日本書紀研究会が成立したのである。
三品先生は、これらの研究会を推進することに非常な熱意を傾け、 研究会を行なうことを喜び、楽しみとされた。 会合は主として京都教員相互会館で行なわれたが、 時には滋賀県守山市にある自坊、蓮生寺その他で合宿を行なわれることもあり、 年末の忘年会、年始の新年宴会などや『日本書紀研究』の論文集の刊行祝賀の際などには、 料亭で行なうこともあったが、 そうした時でも、必ず誰か会員の研究発表後に、開宴したのである。
論文集第一冊の刊行されたのは一九六四年九月二五日であるが、 その祝賀宴は一〇月一六日、洛北山端、高野川端の川魚料理「十一屋」で行なわれ、 小林行雄博士の研究発表の後、川魚の味噌鍋をつつきながら盃をあげた。 三品先生も満悦され、爽涼な秋の佳宵であった。 第二冊完成祝賀会は、一九六六年三月一八日夜、熊野神社東南、 疏水に近き高楼ランブルで行なわれ、春宵を先生中心に談論風発のうちにすごした。 こうした先生を中心の愉快な思い出はつきない。これらはすべて夢となった。
こうして論文集が第五冊を刊行したのち、先生の古稀を祝賀すべく、 第六、七、八冊をそれにあてることが定められたのは、一九七一年の四月であった。 しかるに同年七月ころより、先生は腰背部の痛みを訴え、 八月中旬よりひそかに京都府立医科大学病院に入院せられたが、 実はそれは怖るべき悪性の後腹膜腫瘍に犯されていられたのであった。
先生が一九六八年に大阪市立博物館長を退職されてより、 その研究への精進、猛勉ぶりは、ひとの目をみはらせるものがあった。 昨夏の三国遺事研究会が、午前九時より午後九時に至る長時間、 一週間ぶっつづけに行なわれた如きがそれである。
このような猛勉がたたったのか、先生はついに病に倒れ、 二度とわたくしたちの前に、顔を見せられなかった。
かくして古稀祝賀論文集は追悼論文集に切りかえざるを得なくなったのである。
第六冊には計一四名の方々の論文をいただくことができた。 浄土にいます先生の霊も、莞爾として、この献呈論文を受けとられることであろう。 終わりに先生の逝去後も、研究会は毎月、若い熱心な学徒等によって続けられ、 先生の遺志をついで居ることを附記しておこう。
一九七二年七月一四日故三品先生初盆の日に
三品先生追悼記念『日本書紀研究』編集委員会 代表 横田健一 しるす
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