『日本書紀研究』第22冊

「日本書紀研究会」発足の頃

安井 良三

私が三品彰英先生に教えを乞うことになったのは、 昭和三十年(一九五五)四月のことである。 その年、私は同志社大学大学院文学研究科博士課程に入ったが、 私の指導教授としてお会いすることになったのである。 先生は、同志社大学大学院文学研究科博士課程設立のため招聰されて、 大谷大学から同志社大学に移られたのであった当時、 博士課程の文化史学関係の講義や演習は、旧華族会館で行われていた。 最初の講義である「大安寺伽藍縁起并流起資材帳」の講読演習の時、 私は、先生に日本の古代寺院跡関係の資料を収集していること、 また、『日本書紀』記載の寺院関係記事を整理していることを報告したところ、 『日本書紀』の講読を始めようと言われたが、当初は不定期であった。 顧みると、同志社大学では博士課程が始動しはじめた時であり、 先生は多忙であったと思う。

昭和三十二年の夏、日本書紀の輪読会を定期的に行う目的で、 府庁の近くにあった紫明荘(現堀川会館の前身)において、 発会式にあたる輪読会とパーティーが開かれたが、 当初は同志社関係者が十名足らずであったように思う。 紫明荘は、その後も度々利用していた。 私は、昭和三十二年ころから昭和三十五年七月まで、平安京跡をはじめ長岡京跡、 名神高速道路予定敷地内等の発掘調査に参加したため、発掘現場暮らしが多く、 輪読会にはあまり出席できなかった。 その上、私は昭和三十五年八月、大阪市立博物館創設準備室に勤務することになり、 同十月には、三品先生が大阪市立博物館の初代館長として就任されたので、 一時的に中断した時もあった。 しかも、先生が同志社大学を辞められたので、輪読会を同志社で行うことができなくなり、 紫明荘や京大の楽友会館等で開くことになった。

三品先生が、 『日本書紀研究』第一冊(昭和三十九年)の「序」 で述べられているように、輪読だけでは物足りなく、 途中から研究発表という形で各自の研究論文を発表することになった私は、 「書紀記載の仏教関係記事」の収集と考証・分析および問題点を提起することにし、 「欽明紀記載」分から順次発表したのを思い出す。 そのころは、輪読会を兼ねたような発表をそれぞれが行っていたので、 単なる輪読会とはかなり質の異なるものであった。 私は先生と共に大阪からの帰途、楽友会館へ通い、会館に着くと夏は涼しく、 冬は暖かく快適な研究会を過ごしたのを懐かしく思い出す。 私は考古学を研究していたので、 『日本書紀』記載の記事と考古学的事実が如何ように関わり合うのか、 これが最大の関心事であり、常に考古学的事例は何を物語るのか、 時には民俗学的事例との比較検討を加えた上で、 関わりのある書紀の記事は何を物語っているのかを考えることにしている。 その一例が、『日本書紀研究』第一冊の「天武天皇の葬礼考」であり、 これに関わる考古学的事例は 「横穴式石室の内部構造に関する一考察」―「先史学研究」第5号―である。 本来は、この二つの論文はセットとなるのであるが、 『日本書紀研究』では図面など費用のかかるものはできるだけ省くということもあり、 分離したのである。

また、私は大阪市立博物館の第二回特別展として、 昭和三十六年二月には「古代の日本」邪馬台国展を担当し、 畿内と九州の関連資料を一堂に会して公開したことがある。 その際、文献史料の整理は江畑武氏の手を煩わした。 その関係もあり研究会での発表のうち、 小林行雄先生の古墳の話や石上神社の鉄盾の話がいまだに脳裏をかすめる。 また、横山浩一氏の大化の薄葬の話も印象深いものの一つであった。

ところで、『日本書紀研究』を塙書房で刊行する経緯については、 前述の「序」に述べられているが、 そこで思い出されるのは、三品先生が私に常々述べられていたことは、 「私は、普通の出版社がやるような編集をするのではない。 出版社は多く売るために有名人の原稿を集めて編集・刊行するが、 『日本書紀研究』はまず、そのような有名人の原稿は集めない。 従って『日本書紀研究』に投稿する者、投稿したい者は研究会に出席するのが第一条件である。 第二には研究会で発表すること。しかも、若い学徒で投稿したい者は必ず研究会で発表し、 会員の意見を聞くこと。その上で、修正を加え再度発表することが条件になっていた。 とはいえ、発会当初は十数名であったので、 互いに勝手気ままな発言や指摘を得られたので大いに勉強になった。

特に、忘年会や新年会、夏の合宿(当初は不定期)等は、 今の研究会にも受け継がれている行事であるが、それぞれ懐かしい思い出がある。 昭和三十九年秋、上賀茂神社の近くで『日本書紀研究』第一冊の出版祝賀会が催され、 関係者は互いに祝杯をあげ、次号の刊行を期したのを思い出す。 当時、関西勢で『日本書紀研究』が編集されたということは、大変な好評を博した。 これが今日まで継続しているのである。 次いで、昭和四十年の忘年会を相生の国民宿舎で開いたことがある。 その理由は、先生は大変な食通であり、私もいろいろ食物については教えられ、 度々お供をして御馳走に預かっていた。ある日、先生は相生に国民宿舎ができたが、 魚の料理が主で夏は海水浴客が多いが、冬はあまり人が行かないらしい。 冬は「魚すき」でサービスが良いとのこと、忘年会はここで開こうということになった。 当時、京都では「魚すき」ができるような新鮮な魚は非常に高かったので、 「魚すき」が食べたいというのが一つの目的であった。 研究会の後、「魚すき」ということになったが、新鮮な魚が何種類かあり、 食べ切れないほどの分量で実に美味であった。 それが、今の夏の合宿の始まりである。それ以来、時々京都以外の地で合宿を行った。 他にもいろいろ記すべきことがあるが、 それぞれの職域にある者が夜の研究会へ月一回とはいえ一毎月出席するということは、 実は大変な努力であるといえる。一層の努力を期待したい。

最後に研究会が木曜日に定例化したのは、 同志社大学の教授会が水曜日であったという三品先生の都合と他の会員の都合を総合して、 木曜日となったということを付け加えて置きたい。これが今日まで続いているのである。


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